江戸時代

江戸時代に電気はあった?エレキテルと平賀源内、電気なしの暮らしから明治の電化まで徹底解説

江戸時代に電気はあった?エレキテルと平賀源内、電気なしの暮らしから明治の電化まで徹底解説

スマホの充電、部屋の照明、エアコン、冷蔵庫——現代の暮らしは電気の上に載っている。では江戸時代、電気はあったのか。夜は?暖房は?飯の支度は?

結論から言うと、実用品としての電気は、江戸時代には存在しない。電線も電灯も家電もゼロである。ただし面白いことに、江戸人は電気と「出会って」はいた。その象徴が、平賀源内のエレキテル——ハンドルを回すと火花が飛ぶ、静電気発生装置だ。

この記事では、エレキテルとは何だったのかという話から、電気なしの暮らしを支えた照明・暖房・調理の知恵、そして日本に電気が普及するまでの道のりを、まるごと明かしていく。読み終わる頃には、部屋の照明のスイッチひとつが、ずいぶん豪勢な道具に見えてくるはずだ。

江戸時代に電気はあったのか|答えは「実用の電気はない。でもエレキテルはあった」

江戸時代に電気はあったのか|答えは「実用の電気はない。でもエレキテルはあった」

電線も電灯も家電もない世界|電気が「使えるもの」になるのは明治から

まず結論をはっきりさせておこう。江戸時代に、電気を使う道具や設備は一切ない。発電所も電線もなく、電気を作り、送り、使うという発想自体が社会に存在しなかった。電気が照明や動力として「使えるもの」になるのは、明治に入ってからである。

つまり江戸の暮らしは、明かりも暖も調理も、すべて火と人力と自然で賄われていた。その具体的な姿は後半でたっぷり見るとして、先に「それでも江戸人は電気を知っていた」という意外な話をしよう。

それでも江戸人は「電気」に出会っていた|静電気と雷への好奇心

電気を使えなかった江戸人も、電気現象そのものは日常で体験していた。冬の乾燥した日、着物を脱ぐとパチパチと鳴る静電気。空を裂く。ただ、それらが同じ「電気」という現象だとは、まだ誰も知らない。

そこへ、長崎経由の蘭学とともに、西洋の電気の知識が少しずつ入ってくる。そして江戸の人々の前に、「電気を目の前で起こしてみせる箱」が現れた。それが、エレキテルである。

エレキテルとは何か|平賀源内が蘇らせた静電気発生装置

エレキテルとは何か|平賀源内が蘇らせた静電気発生装置

エレキテルの仕組み|ハンドルを回すと火花が飛ぶ箱

エレキテルは、オランダ語のエレキテリシテイト(電気)に由来する名で呼ばれた、摩擦式の静電気発生装置だ。木箱の中でハンドルを回すとガラスが摩擦され、発生した静電気を蓄えて、銅線の先からバチッと火花を飛ばす。原理は、下敷きを脇でこすって髪を立たせるあの静電気と同じである。

豆電球ひとつ灯せない微弱な電気だが、「見えない力が、目の前で光と音になる」衝撃は絶大だった。電気というものを、江戸の人々が初めて五感で体験した瞬間である。

平賀源内という異才|壊れたオランダ製を執念で修理復元

このエレキテルを日本で有名にしたのが、平賀源内(ひらが げんない)だ。本草学(博物学)から鉱山開発、戯作、油絵まで手がけた江戸中期の異才で、「土用の丑の日にうなぎ」のコピーを考えた人物という説でも知られる、マルチタレントの元祖のような男である。

源内は長崎で入手した壊れたオランダ製のエレキテルを持ち帰り、数年がかりで修理・復元に挑んだ。設計図もなければ、電気の理論書もない。中の構造を推理し、材料を工夫し、試行錯誤の末に安永5年(1776年)ごろ、ついに火花を飛ばすことに成功したと伝えられる。理論抜き、リバースエンジニアリングだけで動かしたのだから、執念と手先の勝利と言うほかない。

医療器具と見世物のあいだ|電気は「驚き」として消費された

では、蘇ったエレキテルは何に使われたのか。源内が掲げた用途は医療である。当時の西洋でも電気は治療に効くと考えられており、源内も痛む患部に火花を当てる「電気治療」の器械としてエレキテルを売り込んだ。

だが実際の人気の中身は、見世物だった。大名屋敷や豪商の宴席に呼ばれ、火花を飛ばしては満座の喝采を浴びる。電気は科学として研究される前に、「驚き」という娯楽として消費されたのである。エレキテルはその後の日本で電気学の発展にはつながらず、源内自身も不遇のうちに獄死する。江戸人と電気の出会いは、鮮烈な一瞬の花火で終わった——この話の意味は、最後の経営の章でもう一度考えたい。

電気なしでどう暮らしていたのか①|照明は火の明かり

照明の主役は行灯|明るさはろうそく1本分以下だった

ここからは、電気なしの暮らしの実際を見ていこう。まず照明だ。江戸の夜を照らした主役は行灯(あんどん)。皿に油を注ぎ、灯芯に火を点し、紙の覆いで風を防ぐ道具である。

その明るさは、現代の感覚では衝撃的に暗い。ろうそく1本分にも満たない薄明かりで、部屋全体はぼんやり、手元の針仕事や読み書きがやっとという世界だ。LED照明の部屋から見れば、江戸の夜は「照明のある暗闇」に近い。時代劇の夜のシーンが実際よりずっと明るいのは、撮影の都合なのである。

ろうそくは高級品、庶民は菜種油と魚油|油代は「夜の時間代」

ならばもっと明るいろうそくを使えばいいと思うだろうが、ろうそくは高級品だった。ハゼの実などから作る和ろうそくは手間のかかる工芸品で、庶民の日常照明には手が出ない。祝い事や上等な席の明かりである。

庶民の行灯の燃料は菜種油、もっと安く済ませるなら魚油(いわしなどの油)だ。魚油は安いが煙と臭いがきつい。そして油はタダではないから、夜更かし=油代がかさむこと。「油を売る」「油代がもったいない」という言葉の感覚そのままに、夜の時間は買うものだった。漁業の記事で紹介した九十九里のイワシは、肥料だけでなくこの魚油の原料としても江戸の夜をほのかに照らしていたのである。

夜が短い暮らし|日の出日の入りに合わせた生活リズム

照明が乏しく高くつく以上、合理的な結論はひとつ。暗くなったら寝るである。江戸の生活時間は日の出とともに始まり、日暮れとともに店じまい。おやつの記事で紹介した通り、時刻制度そのものが日の出・日の入り基準の不定時法で、暮らし全体が太陽のリズムに乗っていた。

夜は火事の警戒もあって外出もままならず、江戸の夜は今よりずっと短く、静かで、暗かった。裏を返せば、照明という技術が「夜」という時間をまだ人間のものにしていなかった、ということだ。この話も経営の章で回収する。

電気なしでどう暮らしていたのか②|暖房は火鉢とこたつ

火鉢・こたつ・湯たんぽ|「部屋を暖める」ではなく「体を暖める」発想

次は暖房だ。江戸の冬の道具は、炭火を入れた火鉢、炭櫓に布団をかけたこたつ、湯を入れて布団に忍ばせる湯たんぽ、懐に入れる懐炉。並べてみると共通点に気づくだろう。どれも部屋全体ではなく、体とその周りだけを暖める道具なのだ。

隙間だらけの木と紙の家では、部屋ごと暖めるのはそもそも不可能で、燃料の炭も安くはない。ならば発想を変えて、暖の範囲を体の半径一尺に絞る。火鉢に手をかざし、こたつに足を入れ、湯たんぽを抱く。エアコンの「全体暖房」とは正反対の、局所集中の暖房思想である。

着る暖房・食べる暖房|綿入れ半纏と鍋という防寒術

道具の外側にも防寒術はあった。着る暖房が、綿を入れた半纏や褞袍(どてら)。重ね着で体温を逃がさない、いわば着るこたつだ。そして食べる暖房が、湯豆腐やねぎま鍋といった温かい鍋と燗酒である。

建物で寒さを遮断できないなら、体の側を固める。衣・食・小道具の三方から体温を守るのが、江戸の冬の戦い方だった。現代の「ウォームビズ」は、江戸の冬の再発明なのかもしれないね。

電気なしでどう暮らしていたのか③|調理はかまどと七輪

かまど(へっつい)|飯炊きの主役、火加減は経験がすべて

三つ目は調理だ。台所の主役はかまど、江戸言葉で「へっつい」。薪を焚いて羽釜で飯を炊く、炊飯の本丸である。

炊飯器のスイッチひとつの現代と違い、かまどの飯炊きは火加減の職人技だ。「はじめちょろちょろ、なかぱっぱ」の口伝の通り、薪の量と燃え具合を見ながら火力を操る。温度計もタイマーもない中、経験だけで炊き上げる白い飯——江戸の女房や奉公人の腕の見せどころだった。

七輪と炭火|コンロ代わりの万能選手

かまどが「据え置きの炊飯装置」なら、七輪は「持ち運べるコンロ」だ。炭を熾して魚を焼き、湯を沸かし、鍋をかける。珪藻土の断熱で少ない炭でも効率よく火力が出る、実によくできた道具である。

長屋の狭い台所では、かまどと七輪の二本立てが標準装備。飯はかまど、おかずは七輪という分担で、江戸の食卓は成り立っていた。七輪が今もなお現役の調理道具として愛され続けているのは、完成度の高さの何よりの証明だろう。

火を起こす手間|火打ち石と火種の管理という日課

そして忘れてはいけないのが、そもそも火を起こすのが一仕事だったことだ。マッチもライターもない時代、火起こしは火打ち石と火打ち金で火花を飛ばし、火口(ほくち)に移して育てるという根気のいる作業である。

だから各家庭は、火鉢や竈の灰に火種を絶やさず埋けておくのが日課だった。火種を切らせば隣家にもらいに行く。「火種を分ける」ご近所付き合いまで含めて、火の管理は暮らしの根幹だったのだ。スイッチひとつの点火が、どれほどの発明か——江戸の台所は、それを教えてくれる。

日本に電気が普及したのはいつか|ガス灯から電灯、全国の家庭へ

文明開化はまず「ガス灯」から|横浜・銀座の夜が変わった

では、日本の夜はいつ明るくなったのか。文明開化の照明革命は、実は電気より先にガス灯で始まる。明治初期、横浜に日本初のガス灯が点り、続いて銀座の煉瓦街にガス灯が並んだ。行灯とは桁違いの明るさに、人々は夜の街見物に繰り出したという。

夜歩きが娯楽になる——江戸の「暗くなったら寝る」暮らしからの、最初の大転換である。

明治の電灯事始め|アーク灯の衝撃と電灯会社の誕生

そして電気の出番が来る。明治15年(1882年)、銀座にアーク灯が試験点灯されると、その眩い光を一目見ようと群衆が押し寄せた。ほどなく東京電燈といった電灯会社が生まれ、白熱電球による電灯の供給が始まっていく。

エレキテルの火花から約100年。電気はようやく、見世物から暮らしを支えるインフラへと生まれ変わったのである。

家庭に電気が行き渡るまで|大正〜昭和にかけての電化

ただし、庶民の家に電灯が普及するには、もう少し時間がかかる。電灯が都市部の家庭へ広がるのは明治末から大正にかけてで、大正期には都市部の電灯普及が一気に進み、裸電球一灯が長屋の夜を照らすようになった。山間部まで含めた全国津々浦々の電化、そして冷蔵庫・洗濯機といった家電の普及は戦後・昭和30年代の話である。

つまり「日本に電気が普及したのはいつか」への答えは段階的だ。明治に街へ、大正に都市の家庭へ、昭和に全国と家電へ。行灯からLEDまで、日本の夜はおよそ100年かけて明るくなったのである。

江戸の電気事情から現代の経営者が学べること

エレキテルの悲劇|技術は「用途」が生まれるまで商品にならない

経営の目で振り返ると、エレキテルの物語は「技術と用途のタイミング」の教訓だ。源内の技術力と着眼は本物だった。だが当時の日本には、電気を活かす用途も、支える理論も、続く人材もない。結果、電気は見世物として一瞬輝いて消え、実用化は100年後の他人の手に渡った。

優れた技術も、用途と受け皿が育つ前では商品にならない。早すぎる参入は、しばしば先行者利益ではなく先行者の犠牲を生む。革新的な製品が売れないとき、問うべきは技術の優劣より「市場の時計」のほうかもしれない——源内の火花は、300年前からそう警告しているのである。

「体を暖める」発想に学ぶ|全体最適が無理なら部分最適で解く

もう一つの学びは、江戸の暖房思想だ。部屋全体を暖める資源がないなら、暖める範囲を体の周りに絞る。火鉢、こたつ、湯たんぽ、綿入れ。リソース不足を、対象の絞り込みで解決する発想である。

これは経営のリソース配分に、そのまま応用できる。全市場を取る予算がなければ、勝てる一点に集中する。全社改革が無理なら、一部門から変える。「全体を変えられないから何もしない」のではなく、「効く場所だけ確実に変える」。こたつという偉大な発明は、制約下の集中戦略の見本だと思うね。

まとめ|江戸の暮らしは「電気なしの知恵」を映す鏡だ

最後に、この記事のポイントを整理しておこう。

  • 江戸時代に実用の電気は存在しない。電気が使えるものになるのは明治からだ
  • ただし平賀源内のエレキテルが静電気の火花で江戸人を驚かせた。用途は医療と見世物で、科学としては育たなかった
  • 照明は行灯が主役。ろうそくは高級品で、庶民は菜種油や魚油の薄明かりのもと、暗くなったら寝る暮らしだった
  • 暖房は火鉢・こたつ・湯たんぽ。部屋ではなく体を暖める局所集中の思想だった
  • 調理はかまどと七輪の二本立て。火起こしと火種の管理は毎日の重労働だった
  • 電気の普及は明治に街(ガス灯・アーク灯)、大正に都市の家庭、昭和に全国と家電へという段階を踏んだ
  • 経営者が学ぶべきは「技術は用途が育つまで商品にならない」「全体最適が無理なら部分最適で解く」という2つの教訓だ

火花を飛ばして人々を驚かせたエレキテル、油の残りを気にしながら灯した行灯、家族で足を入れたこたつ、火加減ひとつで炊き上げた白い飯。電気のない江戸の暮らしは、不便さの記録であると同時に、制約を知恵で乗りこなした記録でもある。今夜、部屋の照明を消して眠るとき、その指先のスイッチに100年分の技術史が詰まっていることを思い出してもらえたら、この記事を書いた甲斐があるというものだ。