江戸時代

【江戸時代の北海道】北海道は日本じゃなかった?蝦夷地・松前藩・アイヌ交易の歴史をたどる

【江戸時代の北海道】北海道は日本じゃなかった?蝦夷地・松前藩・アイヌ交易の歴史をたどる

広大な大地、雄大な自然、美味しい海の幸——現代の北海道のイメージだ。では江戸時代、北海道はどんな場所だったのか。実は、驚くべき事実がある。江戸時代、北海道は「日本」ではなかったのだ。

当時、北海道は蝦夷地(えぞち)と呼ばれ、その大部分はアイヌの人々が暮らす土地だった。和人(本州の日本人)が支配していたのは、道南のごく一部にすぎない。そこを治めたのが、米が一粒も獲れないのに大名だったという異例の存在・松前藩である。蝦夷地は、和人とアイヌという二つの世界が出会い、交わり、そしてぶつかった境界の地だったのである。

この記事では、蝦夷地と呼ばれた島の姿、特殊な松前藩の仕組み、アイヌとの交易と抵抗の歴史、北の恵みが日本経済を潤した物語、そして幕末の激変から「北海道」誕生までを、まるごとたどっていく。読み終わる頃には、北海道という地名の重みが、少し変わって感じられるはずだ。

江戸時代、北海道は「蝦夷地」と呼ばれていた|そこは日本の外だった

江戸時代、北海道は「蝦夷地」と呼ばれていた|そこは日本の外だった

まず、江戸時代の北海道がどういう位置づけの土地だったのかを押さえよう。ここを理解すると、この記事全体の見通しが一気に良くなる。

蝦夷地とは何か|アイヌの人々が暮らす広大な島

蝦夷地とは、現在の北海道(および樺太・千島の一部)を指す、江戸時代の呼び名だ。「蝦夷(えみし・えぞ)」は、古くから和人が本州以北の人々を指して用いた言葉で、ここでは主にアイヌの人々を指す。

アイヌは、独自の言語、信仰、生活様式を持つ先住民族だ。狩猟・漁労・採集を営み、和人とは異なる文化を築いていた。蝦夷地は、幕府が全国に敷いた支配体制の外側に広がる、アイヌの世界だったのである。

和人地と蝦夷地|道南のごく一部だけが「和人の領域」だった

とはいえ、和人がまったく足を踏み入れていなかったわけではない。北海道の南端、渡島半島の一帯には古くから和人が移り住み、和人地(わじんち)と呼ばれる領域を形成していた。そしてそこから北の広大な土地が蝦夷地——アイヌの領域である。

つまり江戸時代の北海道は、南端の小さな和人地と、その外に広がる巨大な蝦夷地という二重構造だった。和人の支配は島全体のほんの一角にすぎず、島の大半は依然としてアイヌの大地だったのだ。この構図を頭に入れて、和人側の拠点・松前藩を見ていこう。

松前藩という特殊な藩|米が獲れないのに大名?

松前藩という特殊な藩|米が獲れないのに大名?

蝦夷地の和人を束ねたのが松前藩だ。この藩、江戸時代の大名としては極めて異例の存在だった。何がどう特殊だったのか、順に解き明かそう。

石高ゼロの藩|米の獲れない土地の大名という異例

江戸時代の大名は、大名の序列の記事で見た通り、石高(米の生産力)で格付けされるのが大原則だった。ところが松前藩の領地は寒冷で、当時の技術では米がほとんど育たない。つまり松前藩は、石高で測れない、事実上「無石」の大名だったのである。

米で禄を語る武家社会において、これは根本的な例外だ。では、米が獲れない土地の藩は、いったい何を財源に成り立っていたのか。

禄は「米」ではなく「交易権」|アイヌ交易の独占が財源だった

答えは交易だ。幕府は松前藩に、アイヌとの交易を独占する権利を認めた。これが松前藩の禄の正体である。米の代わりに、アイヌとの商いそのものが藩の財産だったのだ。

家臣への恩賞も独特で、米(知行地)の代わりに「特定の地域でアイヌと交易する権利」が与えられた。土地ではなく商権を分け与える——武家の常識から外れたこの仕組みが、松前藩を他のどの藩とも違う存在にしていた。「農業を持たない、交易で立つ藩」という、日本でほぼ唯一の経済モデルである。

なぜ北の端に和人の藩があったのか|北方の押さえという役割

幕府がこの特殊な藩を認めたのには理由がある。北方の押さえだ。蝦夷地は幕府の直接支配の外にあるが、放置すれば北から何が来るかわからない。貿易の記事で紹介した「四つの口」——長崎・対馬・薩摩・松前——の一つとして、松前はアイヌとの、そしてその先の北方世界との窓口を担ったのである。

交易の独占という利権を与える代わりに、北の玄関の管理を任せる。利権と役割のセットで辺境を治めさせる、幕府らしい統治術だったわけだ。

アイヌとの交易と支配|商場から場所請負へ

松前藩とアイヌの関係は、時代とともに形を変えていった。対等に近い交易から、次第にアイヌが不利な立場へ追い込まれていく——その変遷を追おう。

商場知行制|家臣に「交易する権利」を分け与える仕組み

松前藩の初期の体制が商場知行制(あきないばちぎょうせい)だ。蝦夷地の各地に「商場(あきないば)」と呼ばれる交易地を設定し、藩主や家臣がそれぞれの商場でアイヌと交易する権利を持つ。家臣は米の代わりに、この交易の利益を禄として得たのである。

この段階では、アイヌは自ら獲った産物を持って交易に臨む、まだ交易の主体だった。だが、この関係はやがて大きく変質していく。

場所請負制|商人に交易を丸投げした後期の体制

時代が下ると、場所請負制(ばしょうけおいせい)へと移行する。武士である家臣が交易を直接行うのをやめ、本州の商人に商場(場所)の経営を請け負わせ、運上金(手数料)を取る仕組みだ。武士は商売の実務から手を引き、商人が現場を仕切るようになった。

これは効率的な仕組みに見えるが、深刻な副作用を生んだ。利益を追う商人たちは、アイヌを交易相手ではなく労働力として漁場などで酷使するようになり、アイヌの生活と社会は大きく損なわれていった。「丸投げ」が現場に何をもたらすか——この問題は経営の章で改めて考えたい。

交易の実態|昆布・鮭・毛皮と、米・鉄・酒の交換

交易の中身も見ておこう。アイヌ側が供したのは、昆布、鮭、ニシン、獣や鳥の毛皮、鷲の羽など、蝦夷地の豊かな自然の恵み。和人側が渡したのは、米、鉄製品(鍋・刃物)、漆器、木綿、そして酒や煙草などだった。

当初は互いに必要なものを交換する関係だったが、交換のレート(何をどれだけで交換するか)は次第に和人側に有利に、アイヌ側に不利に傾いていった。対等な交易から、不平等な収奪へ——蝦夷地の歴史は、この傾きとともに進んでいくのである。

アイヌの抵抗|奪われる側の戦い

不平等な支配に、アイヌの人々が黙って従っていたわけではない。歴史には、和人支配への大規模な抵抗が刻まれている。奪われる側から見た蝦夷地の歴史を、目をそらさずに見よう。

シャクシャインの戦い|和人支配への大規模な蜂起

1669年、日高地方の首長シャクシャインを中心に、広範なアイヌが松前藩に対して蜂起した。シャクシャインの戦いである。交易条件の悪化や和人の横暴への不満が背景にあり、一時は各地のアイヌが呼応する大規模なものとなった。

しかし松前藩は幕府の後ろ盾を得て鎮圧に動き、和睦の席でシャクシャインは謀殺されたと伝えられる。この敗北を境に、アイヌは松前藩の支配下により深く組み込まれていくことになった。蝦夷地の力関係を決定づけた、大きな転換点である。

クナシリ・メナシの戦い|追い詰められた末の抵抗

時代が下った1789年には、道東でクナシリ・メナシの戦いが起きる。場所請負制のもとで、請負商人による過酷な扱いに耐えかねたアイヌの若者たちが蜂起した事件だ。これも鎮圧され、多くのアイヌが処刑された。

二つの戦いに共通するのは、いずれも交易・労働の場でアイヌが追い詰められた末の抵抗だったことだ。抵抗は鎮圧され、そのたびに支配は強まる。蝦夷地の歴史の底には、こうした奪われる側の苦難が横たわっていることを、忘れてはならないだろう。

交易から収奪へ|不平等に傾いていく和人とアイヌの関係

商場知行制から場所請負制へ、そして度重なる抵抗とその鎮圧を経て、和人とアイヌの関係は交易から支配・収奪へと、はっきり傾いていった。砂糖の記事で見た奄美の黒糖生産と同じく、豊かな恵みの陰に、奪われる人々の労苦があった。北の恵みが日本を潤した物語を次に語るが、その光の裏に影があったことを踏まえて読んでほしい。

蝦夷地と日本経済のつながり|北前船が運んだ北の恵み

支配の実態はさておき、蝦夷地の産物は日本経済に欠かせない存在になっていた。北の海の恵みが、どう本州を潤したのかを見よう。

俵物と昆布|蝦夷地の海産物が支えた貿易と食文化

蝦夷地の海産物は、日本経済の重要な一部だった。漁業の記事で紹介した俵物(干しナマコ・干しアワビ・フカヒレ)は、長崎から中国へ輸出される戦略物資であり、その供給地の一つが蝦夷地だった。そして昆布。蝦夷地の昆布は北前船で本州へ運ばれ、特に大坂に昆布だし文化を根付かせた。うどんの記事で「上方は昆布だし」と書いたが、その昆布の故郷こそ蝦夷地なのである。

北の海の幸が、長崎の貿易を支え、上方の食文化を作る。蝦夷地は、日本列島の食と経済に深く組み込まれていたのだ。

ニシン漁と鰊御殿|北の海が生んだ富

もう一つの北の富がニシンだ。春、産卵のために沿岸へ押し寄せるニシンの大群は「群来(くき)」と呼ばれ、これを獲る漁は莫大な富を生んだ。ニシンは食用になるだけでなく、〆粕(しめかす)という肥料に加工され、本州の綿作などを支える金肥として売られた。九十九里のイワシが干鰯になった話と、まったく同じ構図である。

ニシン漁で財を成した親方たちは、豪壮な鰊御殿(にしんごてん)を建てた。その一部は今も北海道に残り、往時の北の富を今に伝えている。北の海は、食料であり、肥料であり、富の源だったのだ。

幕末の激変|ロシアの南下と幕府直轄、そして「北海道」へ

長らく松前藩に任されていた蝦夷地は、幕末になって歴史の表舞台に躍り出る。北から迫る脅威が、この辺境を国家の最前線に変えたのである。

ロシアの接近|北方が国防の最前線になった

18世紀後半から、ロシアが南下し、蝦夷地周辺に姿を現すようになる。通商を求める使節が訪れ、北方の島々でロシアとの接触や緊張が生まれた。貿易の記事で見た「管理された鎖国」の窓口の、そのさらに外側で、世界が動き始めていたのだ。

のどかな交易の地だった蝦夷地は、一転して国防の最前線となった。もはや一藩に任せておける場所ではない——幕府はそう判断する。

幕府直轄と探検|間宮林蔵らが北を歩いた

幕府は蝦夷地の一部を直轄地とし、防備と調査に乗り出した。この時期、蝦夷地や樺太を探査したのが間宮林蔵だ。彼は樺太が島であることを確かめ、その成果は「間宮海峡」の名として残っている。近藤重蔵らとともに、北の地理を明らかにした探検家たちの時代である。

幕府による直轄と調査は、蝦夷地を「よく知らない辺境」から「国家が把握すべき領域」へと変えていった。北海道が日本に組み込まれていく、その助走が始まったのだ。

「北海道」の誕生|明治の命名と開拓の始まり

そして明治。新政府は蝦夷地を正式に日本の領土として組み込み、開拓を進めるにあたって、1869年(明治2年)、「北海道」という名を定めた。この命名には、探検家であり北方研究者だった松浦武四郎の提案が反映されたとされる。東海道や南海道になぞらえた「北海道」——蝦夷地は、ここでようやく現在の名を得たのである。

開拓使が置かれ、屯田兵が入植し、大地は農地と都市へと姿を変えていく。だがその開拓は、アイヌの土地と文化の上に進められたものでもあった。同化政策のもとでアイヌの言語や生活は抑圧され、その回復は現代に持ち越される課題となる。「北海道」の誕生は、新しい始まりであると同時に、アイヌにとっては大きな喪失の始まりでもあったことを、記しておきたい。

江戸の北海道から現代の経営者が学べること

蝦夷地の歴史からは、ビジネスに通じる教訓も引き出せる。松前藩のユニークな成り立ちと、場所請負制の失敗、その両面から学んでみよう。

松前藩に学ぶ|「主力商品がない」土地で交易権を財源にした発想

松前藩の面白さは、誰もが持つ主力資源(米)を持たなかったことから始まる。米で立つのが当たり前の武家社会で、米のない藩は普通なら成り立たない。だが松前藩は、発想を転換した。「作る」のではなく「つなぐ」——交易の独占権そのものを財源にしたのである。

これは現代のプラットフォーム型・仲介型ビジネスの発想に近い。自ら商品を生産せず、取引の場や権利を握ることで収益を得る。製造業のような「作る富」を持たなくても、「つなぐ富」で組織は立てる。手持ちの資源のなさを嘆く前に、流れの結節点を押さえられないかを問う——松前藩は、そのユニークな成功例なのだ。

場所請負制の教訓|丸投げは効率と引き換えに現場を荒廃させる

一方、影の教訓が場所請負制だ。武士が交易の実務を商人に丸投げした結果、藩は運上金という安定収入を得たが、現場ではアイヌの酷使と関係の荒廃が進んだ。効率化のための外部委託が、管理の目を失わせ、現場を破壊したのである。

現代でも、業務の丸投げは同じリスクをはらむ。委託先に任せきりにすれば、コストは下がり手間は省けるが、現場で何が起きているかが見えなくなり、品質や関係者の疲弊が放置される。委託は「任せる」ことであって「無関心になる」ことではない。丸投げの効率には、現場を見失うという高い代償が伴う——場所請負制の荒廃は、外部委託の光と影を300年前に示しているのである。

まとめ|江戸時代の北海道は「二つの世界が出会った境界」を映す鏡だ

最後に、この記事のポイントを整理しておこう。

  • 江戸時代の北海道は蝦夷地と呼ばれ、大部分はアイヌの土地。和人の支配は道南の一部に限られていた
  • 松前藩は米の獲れない「無石」の異例の藩で、アイヌ交易の独占権を財源とした
  • 支配は商場知行制から場所請負制へと移り、アイヌとの関係は交易から収奪へと傾いた
  • シャクシャインの戦いなど、奪われる側であるアイヌの抵抗が繰り返されたが、そのたびに支配は強まった
  • 蝦夷地の昆布・俵物・ニシンは北前船で本州へ運ばれ、貿易と食文化を支えた
  • 幕末のロシア南下で蝦夷地は国防の最前線となり、明治に「北海道」と命名されて開拓が始まった(それはアイヌにとって喪失の始まりでもあった)
  • 経営者が学ぶべきは「作る富がなくてもつなぐ富で立てる」「丸投げは現場を見失う代償を伴う」という2つの教訓だ

アイヌの大地に和人がわずかに触れ、米なき藩が交易で立ち、北の恵みが本州を潤し、そして黒船ならぬロシア船が歴史を動かした。江戸時代の北海道は、二つの世界が出会い、交わり、ぶつかった境界の物語である。今度、北海道の昆布だしや海の幸を味わうとき、その恵みの故郷にあった交易と抵抗の歴史を、少しだけ思い浮かべてもらえたら、この記事を書いた甲斐があるというものだ。