江戸時代

【江戸時代のたんぱく質】主役は大豆と魚|「畑の肉」豆腐が支えた食生活の実像

【江戸時代のたんぱく質】主役は大豆と魚|「畑の肉」豆腐が支えた食生活の実像

肉をほとんど食べなかったと言われる江戸時代。では、当時の人々はいったい何からたんぱく質を摂っていたのか。肉なしで、あの体力仕事をこなす日々を支えられたのだろうか。

結論から言うと、江戸のたんぱく質の主役は大豆と魚だ。豆腐、納豆、味噌といった大豆製品が「畑の肉」として日々の食卓を支え、江戸前の魚や干物がもう一本の柱となった。さらに意外なことに、江戸の人々は肉もそれなりに食べていた。「薬食い」という建前のもと、猪や鹿を食わせる店が町にあったのである。

この記事では、なぜ肉食が避けられたのかという背景から、大豆・魚・卵という三つのたんぱく源、隠れた肉食文化、そして江戸の食生活の栄養面での評価までを、まるごと解き明かしていく。読み終わる頃には、味噌汁と豆腐の一杯が、少し違って見えてくるはずだ。

江戸時代の人はなぜ肉をあまり食べなかったのか|肉食忌避の背景

江戸時代の人はなぜ肉をあまり食べなかったのか|肉食忌避の背景

まずは大前提から。なぜ日本人は長らく肉食を避けてきたのか。宗教と社会、両方の事情が絡んでいる。

仏教の殺生禁断と肉食禁止の歴史

日本で肉食が避けられた最大の背景は、仏教の殺生禁断(せっしょうきんだん)の思想だ。生き物を殺すことを戒める教えが浸透し、古代には天武天皇による肉食禁止の詔が出されるなど、公的にも肉食を制限する動きが繰り返された

時代が下るにつれ、四つ足の動物を食べることは「穢れ(けがれ)」とみなされる意識も広がった。江戸時代の人々にとって、肉食は「できない」というより「はばかられる」ものだったのである。

牛馬は食べ物ではなく「労働力」だった

もう一つ、現実的な事情もある。牛や馬は、食べ物ではなく貴重な労働力だった。田を耕し、荷を運ぶ動力源である。それを食用に潰すのは、現代で言えばトラクターを解体して食べるようなもの——経済的に割に合わないのだ。

宗教的な忌避と、経済的な合理性。この二つが重なって、日本の食卓から肉は遠ざかっていったのである。

「まったく食べなかった」わけではない

ただし、ここは正確に押さえておきたい。江戸時代の人が肉をまったく食べなかったというのは、言い過ぎである。鶏や鴨などの鳥類は比較的抵抗が少なく食べられていたし、猪や鹿も「薬食い」として食されていた。この点は、記事の後半で詳しく見ることにしよう。

たんぱく質の主役は大豆|「畑の肉」が支えた食卓

たんぱく質の主役は大豆|「畑の肉」が支えた食卓

肉が食卓の中心にない以上、たんぱく質は別の食材から摂るしかない。その最大の柱が大豆だった。江戸の食卓を支えた大豆製品の顔ぶれを見ていこう。

豆腐|毎日買える身近なたんぱく源

江戸のたんぱく源の筆頭が豆腐だ。町のあちこちに豆腐屋があり、朝には豆腐売りが町を回った。安く、毎日買えて、そのまま食べられる——これほど手軽なたんぱく源はない。

冷奴、湯豆腐、田楽、味噌汁の実。つまみの記事で「江戸のつまみの王様は豆腐」と書いたが、それは酒の肴に限らない。豆腐は江戸の食卓全体を支えた主力選手だったのである。豆腐料理だけで百品を紹介する『豆腐百珍』がベストセラーになったのも、この存在感あってこそだ。

味噌と醤油|調味料でありながら大豆の栄養源

見落とされがちだが、味噌も重要なたんぱく源だ。毎日の味噌汁で摂る味噌は、少量ずつでも積み重なれば無視できない。しかも発酵によって旨味と栄養が高まっている。

保存食の記事で見た通り、味噌と醤油は保存食にして調味料という二刀流の存在だが、栄養面でも大豆の恵みを毎日の食事に溶け込ませる役割を果たしていた。一汁一菜の「一汁」が味噌汁だったことには、大きな意味があったのである。

納豆|朝の定番、振り売りが運んだ発酵食品

納豆も江戸の食卓の常連だ。朝になると納豆売りが「なっとーなっとー」と町を流し、庶民はそれを買って朝飯の菜にした。江戸では叩いて納豆汁にする食べ方も好まれたという。

安価で、栄養価が高く、発酵によって消化もよい。手軽な発酵たんぱく源として、納豆は庶民の朝を支えていたのである。

湯葉・油揚げ・きな粉|大豆の多彩な変身

大豆の凄さは、その変幻自在ぶりにもある。豆乳を煮て作る湯葉、豆腐を揚げた油揚げがんもどき、炒って挽いたきな粉、そしておから。一つの豆から、これだけ多様な食品が生まれる。

油揚げは煮物や汁物のコクを出し、きな粉は餅や菓子の風味づけになる。大豆は「畑の肉」であるだけでなく、「万能の素材」だった。この多用途性は、最後の経営の章でもう一度取り上げよう。

魚というもう一つの柱|海と川の恵み

大豆と並ぶたんぱく源が魚だ。四方を海に囲まれた日本ならではの供給源だが、その事情は地域によって大きく違った。

江戸前の魚|新鮮な魚が身近にあった江戸の強み

江戸の町は恵まれていた。漁業の記事で見た通り、目の前の江戸湾で魚が獲れ、日本橋の魚河岸から棒手振りが町へ運ぶ。イワシのような安い魚なら、庶民も日常的に口にできた

焼き魚、煮魚、刺身、寿司。魚は江戸っ子にとって最も身近な「動物性たんぱく質」だったのである。100万都市の食を支えた流通網が、そのまま栄養供給網でもあったわけだ。

干物・塩魚・佃煮|保存技術が魚を全国へ届けた

もっとも、生魚が食べられるのは海に近い土地だけだ。そこで活躍したのが保存加工である。干物、塩鮭や塩鯖、保存食の記事で紹介した佃煮——これらは日持ちする「携帯できるたんぱく質」として、内陸や日常の食卓に魚を届けた。

保存技術は、味を守るだけでなく栄養を時間と距離を越えて運ぶ技術でもあったのだ。

内陸の人はどうしたのか|川魚と保存魚の役割

海から遠い山間部では、川魚が貴重なたんぱく源となった。鮎、鯉、フナ、ドジョウ、ウナギ。加えて、街道を運ばれてくる塩魚や干物、そして地元の大豆製品が食卓を支えた。

ただし正直に言えば、内陸の食生活は海辺より動物性たんぱく質が乏しかったと考えられる。江戸の食生活を語るとき、都市部と農村部、海辺と内陸ではかなり事情が違ったことは押さえておきたい。

卵は貴重品だった|意外と高かったたんぱく源

現代では最も手軽なたんぱく源の代表格である卵。だが江戸時代、その立ち位置は今とはずいぶん違った。

江戸時代の卵の値段|庶民には少し贅沢

意外に思われるかもしれないが、江戸時代の卵は決して安いものではなかった。養鶏が現代のような大規模産業ではなく、供給が限られていたためだ。一個で蕎麦一杯分ほどしたという記録もあり、庶民が毎日食べるものではなかったとされる。

とはいえ、まったく手が届かないわけでもない。病人の滋養に、ちょっとした贅沢に——卵は「たまのご馳走」的なたんぱく源だったのである。

卵料理の広がり|『万宝料理秘密箱』と卵百珍

高価ではあったが、卵料理は着実に広がっていた。江戸後期には『万宝料理秘密箱(まんぽうりょうりひみつばこ)』という料理書が出版され、その中の「卵百珍」の部では百種類を超える卵料理が紹介されている。

『豆腐百珍』といい卵百珍といい、一つの食材を極限まで工夫するのが江戸の食文化の特徴だ。貴重な食材だからこそ、その一個を最大限においしく食べようとしたのだろう。

実は食べていた肉|ももんじ屋と薬食いの世界

ここまで「肉を食べない」前提で話を進めてきたが、実態はもう少し柔軟だった。江戸の隠れた肉食文化をのぞいてみよう。

ももんじ屋|猪や鹿を食べさせた店

江戸の町には「ももんじ屋」と呼ばれる店があった。猪、鹿、狼、猿といった獣の肉を売り、食べさせる店である。両国あたりにあった店が有名で、看板を掲げて堂々と営業していた。

猪肉は「山鯨(やまくじら)」、鹿肉は「紅葉(もみじ)」、馬肉は「桜」——といった隠語で呼ばれたのも面白い。建前として獣肉を避けつつ、別名をつけることで心理的なハードルを下げる。本音と建前を使い分ける、いかにも日本的な工夫だろう。

「薬食い」という建前|滋養のためなら許された

肉食を正当化する魔法の言葉が「薬食い(くすりぐい)」だ。「これは楽しみで食べているのではない。体を養う薬として食べているのだ」という建前である。特に寒い冬、体力をつけるために獣肉を食べることは、薬食いとして許容された。

信仰や慣習で禁じられていても、栄養を求める体の要求は消えない。薬食いという建前は、その要求と社会規範を折り合わせる知恵だったのである。

彦根藩の牛肉味噌漬け|将軍家への献上品だった

さらに驚く例もある。近江の彦根藩では牛肉の味噌漬けが作られ、将軍家や大名家への献上品とされていたと伝わる。あの井伊家の彦根藩である。表向き肉食を避ける社会で、最上層では牛肉が贈答品として流通していたというのだから、実に人間くさい話だ。

建前は建前、実際は実際。江戸の肉食は「ゼロ」ではなく「控えめかつ、こっそり」だった——これが実像に近いだろう。

江戸の食生活は健康的だったのか|栄養バランスの実際

最後に、栄養面から江戸の食生活を評価してみよう。理にかなった面と、深刻な問題の両方があった。

大豆と魚の組み合わせ|理にかなった栄養構成

大豆製品と魚を柱とするたんぱく質の摂り方は、栄養学的に見ても理にかなっていたと考えられる。植物性の大豆と動物性の魚を組み合わせることで、必要な栄養素を補い合える構成になっていたからだ。

現代でも「和食は健康的」と評価されることが多いが、その原型は江戸の食卓にすでにあったと言っていいだろう。

白米偏重の落とし穴|「江戸患い」という問題

ただし、手放しで褒められるわけではない。江戸の食生活には深刻な弱点があった。白米への偏りである。

特に江戸の町では白米を大量に食べる食習慣が広がり、おかずが乏しいと栄養が偏る。その結果として広がったのが、ビタミンB1の不足による脚気(かっけ)——弁当の記事でも触れた「江戸患い」だ。江戸で暮らすと発症し、雑穀を食べる国元へ帰ると治る。原因が解明されるのは明治以降のことだった。

主食に偏り、副菜が乏しい食生活はリスクを生む——江戸患いは、その厳しい実例なのである。

現代から見た江戸食の評価|良い面と課題の両方

整理すると、江戸の食生活は良い面と課題の両方を持っていた。大豆と魚を組み合わせた構成や、発酵食品の活用は理にかなっていた。一方で、白米偏重による栄養の偏り、地域や階層による格差、そして飢饉時の食料不足という問題も抱えていた。

「昔の食事は健康的だった」と単純に理想化するのも、「貧しくて栄養不足だった」と決めつけるのも、どちらも一面的だ。限られた条件の中で工夫を凝らしつつ、限界も抱えていた——それが江戸の食生活の実像だろう。

江戸のたんぱく質事情から現代の経営者が学べること

肉という選択肢を欠いた食文化は、制約への対処という点で示唆に富む。二つの教訓を引き出そう。

制約が生んだ代替供給網|「使えない」なら別の資源で解く

江戸の食文化が見せてくれるのは、主要な選択肢が封じられたときの対処法だ。肉が使えないなら、大豆で「畑の肉」を作り、魚を保存して内陸まで届け、それでも足りなければ「薬食い」という建前で例外を設ける。正面から使えないなら、代替と迂回で供給網を組み直すのである。

ビジネスでも、主要な仕入れ先が絶たれる、規制で従来の手法が使えなくなる、といった事態は起こる。そのとき問うべきは「元に戻すには」だけではない。「同じ機能を、別の資源で満たせないか」——江戸の食卓は、代替戦略の壮大な実例なのだ。

大豆に学ぶ多用途展開|一つの素材を何通りにも活かす

もう一つの学びが、大豆の多用途展開だ。同じ大豆から、豆腐、味噌、醤油、納豆、湯葉、油揚げ、きな粉、おからが生まれる。一つの原料を、加工の工夫だけで無数の商品に変えたのである。

新しい素材を探すより、手元の素材の使い道を増やす。一つの技術や資産を、異なる市場向けに展開するという発想は、現代の事業展開にそのまま通じる。しかも大豆製品は、それぞれが独立した産業(豆腐屋、味噌屋、醤油屋)を生んだ。多用途展開は、産業そのものを増やす力を持つ——江戸の大豆は、その最良の教材である。

まとめ|江戸のたんぱく質は「制約の中の知恵」を映す鏡だ

最後に、この記事のポイントを整理しておこう。

  • 肉食が避けられた背景には仏教の殺生禁断と、牛馬は労働力という経済的事情があった
  • たんぱく質の主役は大豆。豆腐・味噌・納豆・油揚げなど、多彩な形で毎日の食卓を支えた
  • もう一本の柱が。江戸前の鮮魚と、干物や佃煮などの保存魚が全国へ栄養を届けた
  • 卵は意外と高価で、庶民には「たまのご馳走」。それでも卵百珍のような料理書が生まれた
  • 実は肉も食べられていた。ももんじ屋薬食いという建前、彦根藩の牛肉味噌漬けなど、本音と建前の使い分けがあった
  • 栄養面では大豆と魚の組み合わせは理にかなっていた一方、白米偏重による江戸患い(脚気)という課題も抱えていた
  • 経営者が学ぶべきは「使えないなら別の資源で機能を満たす」「一つの素材を多用途に展開する」という2つの教訓だ

肉という選択肢を持たないまま、大豆を「畑の肉」に変え、魚を保存して山まで運び、時に建前を使って例外を設ける。江戸のたんぱく質事情は、制約の中で栄養を確保しようとした知恵の集積だった。今日の食卓に豆腐や納豆、焼き魚が並んだら、それが数百年前から日本人の体を作ってきた主力選手だったことを、少し思い出してもらえたら、この記事を書いた甲斐があるというものだ。